タマムシシティの池

向こうで書く気がしないようなことをこっちに書きます

対戦理論の宗教性について

ポケモン要素はあんまりないです

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ポケモンをやる上での対戦理論について、これが非常に「西洋的思考」であるというはなしから。

なんとなく高尚な記事を書いて意識アピールしてみよう。


まず、対戦理論の何が西洋的なのかを大雑把に述べると
・どのようなモノにも通用する原則となる法則性が存在する
ということが非常に西洋的なのです。


何をいってるのかよーわからんのでもう少しかみ砕いた言い方をする。


つまり、
・どのような人間であっても永遠に考え続けたのならば、必ず同じ結論に至る
ということ
です

そしてこの結論のことを「法則」宗教的な言い方をすれば「神様が定めたルール」というわけですね

(なお、無神論者であっても定めた存在が神から世界、科学などに代わるだけでほとんど同じなのですが、割愛)

例えば、ポケモン6世代であればどんなプレイヤーも考察をしていけばガルクレセドランが最強であると結論づけるはず
というような考え方です。
(あくまで例示なので正しいかは置いておいてください)

ではその逆、対となる考え方はなにか?

一言で言えば、結論なんて存在しねーよという考え方です

先の6世代ならガルクレセドラン以外にも、厨パ、ゲンスイ、カバリザ、さらに新たに構築が生まれ強いパーティとしてガルクレセドランと並び続ける、こう考えます。


さて、自分がどちらの思考なのか考えてみましょう。
日本人は科学を使いながら、オカルトも信じる人種なのであやふやな人も多そうですが


で、なんでこんなことを理解せにゃならんのやと

理由はシンプルで、単一結論派と否定派では議論が成立しないことがあるからです。

最近話題の議題「初心者は上級者の真似をすべきなのか」を考えてみましょう。

単一結論派から見れば、これは議論の余地がなくイエスです。

何故なら、彼らの考え方では例え初心者が上級者の真似をせずに強くなっても、ほぼ確実に既に存在する上級者と似た上級者へと成長するからです。

たくさんの分岐がある道を通って目的地を目指すとしても、ゴールがひとつである以上最初はたくさん道があってもだんだんと道が統合されて最後はひとつである。

こういう考え方であれば、上級者の真似をするのは当たり前です。
独学でやるのは単なる回り道にすぎないわけですから。


一方、単一結論否定派はこの考えを理解できません。

彼らにとって強くなるとは山頂を目指すのではなく、スタート地点からどの方向に走ってもいいからできるだけ遠くに行こうというニュアンスに近いからです。


確かに、遠くを目指すにしても誰かが通った道なら通りやすいですが、山頂を目指す考え方と違い、別に知らない道を歩いてもそこまで損失はないし、新しい遠い道を見つける可能性があります。一方山頂を目指す場合、このような新しい道は基本見つからないものと考えます。


このように、根本の考え方が違うとそもそも議論が成り立ちません。
他の例として「キレイな構築」と強さの関係もあります。

キレイな構築を重視するプレイヤーは「そのキレイな構築が完成すれば最強である」という前提にたっています。

そのようなプレイヤーに「構築のキレイさより強さを求めろよ」なんて言い出すのはナンセンスです。

だって彼らの視点からすれば、目先の強さより真の強さを追ってるのはこっちだろってなるわけですからね。


ということで、議論をする上で以上のような思考の根本的な違い、すなわち議論の意味のない違いについて把握していないと、どうしようもなく滑稽な結末を招きます。

自分の意見を他人に通す前に自分の意見の根本に何があるかをしっかりと把握しましょう。




















…なんで宗教性ってタイトルなのかって?

いやだってこの根本的な考え方って宗教と非常に似通ってますよねって